五月の半ば、新緑のまぶしい時期に、特別公開日に合わせて国宝茶室の如庵(じょあん)と書院を見学してきました。
愛知在住の親友が予約してくれたので、会社休んで行ってきました。
おおおーーー
ついに、ついに!!!
如庵が見学できるとはーーー!
どうしよう、嬉しい!
以下、合格物語から引用です。
27023東京戻ってきて、この出題の内容見て、えーーーー!こんな出し方かぁと思いました。
如庵(犬山市)は、17世紀にもと建仁寺内に造立された、大小五つの窓や躙口の配置が特徴的な茶室である。
っていうのも、案内していただいた方は、躙口の特徴については、特に説明されなかったから。笑
もちろん、「窓」は、それはそれは感動しましたとも!
ということで、いつもどこか行く時は、事前に予習することが少ないのですが・・・
今回はさすがにできる範囲で調べ上げました。
(一応、大学、大学院ともナンチャッテ日本建築史専攻)
まずは、外堀りから。
一冊目は、こちら。
名古屋鉄道の元社長、金子暁男氏のご著書です。
1 いや、なぜ如庵は、現在愛知県犬山市に?
はい。本を読んで、ざっくりまとめますと。
流転の人生でございます。(建物だけど)
そもそも。
如庵はですね、京都建仁寺の境内あったそうで。
その塔頭(たっちゅう:本寺の境内にある寺、高僧等の住まい)である、現正伝永源院。
祇園の辺りだそうです。
へー
って、京都にウトイワタクシ、地図で眺める次第です。↓
秀吉のお気に召さなかったため、大阪城から追い出された織田有楽斎(おだうらくさい、後述)が、京都に隠遁しようと、荒廃していた建仁寺を再興しまして。
その塔頭に、書院と茶室如庵を建てたそうです。
その後いろんなことがありまして、現在書院と茶室は愛知県犬山市に移築と。
犬山市?
どこ?
京都らへんじゃないの?
なにゆえ?
はい、知らないとはこうゆう感じなんですけど。(私のこと)
犬山市というよりは、愛知県明治村のご近所さんだとわかりやすい?
まぁ、
要するに、パトロンである名古屋鉄道ですよ。
この、元社長である金子氏のご著書のおかげで、織田有楽斎の生い立ちから、如庵建立当初から、現在に至るまでこと細かく知ることができました。
おかげで、案内して頂いた方に、質問大量にするくらい詳しくなりましたとも!笑
2 茶匠、織田有楽斎(おだうらくさい)
茶匠、と書いて、ちゃしょうと読みます。茶人といえば、織田信長、豊臣秀吉の茶頭(さどう)を務めた千利休が有名ですが。
この織田有楽斎という方は、利休と25歳だか年下。
当時の25歳差って、今で言う、60代と20代くらいの精神構造的違いがあるような・・・?(妄想)
とにかく、千利休と生きた時期がかぶっていて、茶会にも同席しその背中を見て育っていると言われています。
織田、という名字からして、織田信長の11番目の弟。
以下、生誕の年。
1522年(大永2年)千利休
1524年(永禄9年)徳川家康
1534年(天文3年)織田信長
1537年(天文7年)豊臣秀吉1547年(天文16年)織田長益(織田有楽斎)←本人
(数えとかで、1、2年のズレはご愛嬌。)
それでいて、75歳とかいうめちゃくちゃ長寿。
普通の人の倍近く生きて、もはや仙人?みたいな感じだったのではと思いますが。笑
また、師匠を利休としながらも、お茶に関する知識や作法、考え方を含めて別格とも言われたそうで。
当時最先端だったお茶という文化に関して、抜きん出ていたそうです。
そして、師匠の利休との違いが、本人の長寿を可能にしたというか。
とにかく、武将の家に生まれたのに争いを好まない。
織田家に生まれて、もちろん本能寺の変も経験してますし、関ヶ原の戦いやら大阪の冬の陣、夏の陣も。
姪二人が豊臣家と徳川家に嫁いだ関係もあって、間を取り持つような立場をずっと取り続けたそうで。処世術に長けてた、と言われているそうです。
その姿勢が、秀吉の気に障ったために大阪城を追い出されまして、京都に隠居するわけです。
そんなこんなな茶室如庵の生誕であります。
3 茶室如庵、京都の建仁寺にて誕生
正伝院は元和4年(1618年)に建築され、秋には建立と推測される。となってるので、有楽斎が71歳か72歳。
「茶匠と建築」中村昌生著
1621年(元和7)冬に75歳で亡くなっているので、隠居所と言いつつ実質3年くらいしか住んでないんですね。汗
たった三年か。。。って感じですね。
「有楽好み」の茶室は、わかっているだけで8室(「茶匠と建築」中村昌生著より)。
如庵は最後の作とされていて、その正伝院の書院で亡くなったそうなので、遺作ということになります。
晩年、「好み」を集結した茶室を建てる、最後の機会となったわけで。
戦乱の世にて、どんな想いがあったのかなーと妄想するのも面白いです。
また、名前の由来も、定かではないそうですが、当時最先端の思想であったキリスト教の洗礼名ジョアン、が有力だということです。
4 織田有楽斎亡き後
さて。ちょっと長くなりましたが、有楽斎本人が亡くなった後、一緒に住んでいた家族も亡くなり、跡継ぎの孫も亡くなった後。。。
(京都に隠居してわりとすぐ)
織田家の有楽斎(長益)の血筋は絶えるわけですが。
書院と茶室は、いろいろありまして。。。
塔頭正伝院に寄進
↓
明治には祇園町有志に払い下げて有楽館として運営
↓
収益がなくなり明治41年に売却
↓
三井財閥が取得し、書院と茶室と露地の一部が東京麻布の三井家本邸に移築。
↓
昭和11年 国宝に指定
↓
昭和13年 迫る戦火を逃れるために、神奈川県大磯の三井家別邸城山荘へ移築。
↓
昭和26年 書院が重要文化財に指定
↓
昭和44年 名古屋鉄道が三井別荘用地取得
↓
昭和45年(1970年) 犬山城のふもと、名鉄ホテルの旧遊園地跡に移築決定
↓
昭和47年(1972年) 移築工事完了
以上、有楽苑築造記―国宝茶室「如庵」移築と堀口捨己 金子暁男著より。
名鉄といえば、明治村。
谷口吉郎氏のご活躍とともに、明治の文化がわかりやすく展示されてますが。
(大人になって行った方が面白いという結論)
明治村でなくて、犬山城のほとりに決定したという経緯も、またいろいろあったみたいです。
明治村館長の谷口吉郎氏や茶室の権威堀口捨己氏の話は、よかったら金子氏の著書を。
4 まとめ
戦乱の時代終盤、京都に生まれた如庵という茶室。
武将の家に生まれた茶匠織田有楽斎(おだうらくさい)という人は、争いを好まず、秀吉に大阪を追い出されたあと京都建仁寺に隠居所として建てたと。
明治後半に三井財閥が取得→第二次世界大戦後に名鉄が取得、という経緯で、愛知県犬山市に移築。
財閥、実業家というパトロン、大事ですね。
現存していてよかったです。
長い前フリですが、こんな感じでしょうか。
その2ー大小5の窓と躙口 につづきます。
その2ー大小5の窓と躙口 につづきます。
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